『覚える』
自由を考えるとき、何かから放たれることを想像することも少なくない。しかし、それは本当の自由だろうか…。鈴木大拙は「最も東洋的なるもの」の中で「自由」とは「リバティ」でも「フリーダム」でもなく
「松は松になる。竹は竹になる。というのは竹の自由で、松の自由である」
というようなことを語った。こういった言葉は、頭で考えると訳が分からなくなる。言葉を感じるには、ひとたび頭で考えることを止めなくてはならない。そうしない限り、その言葉の真意には辿りつけはしないのだ。
「身体で覚える」という言葉がある。少なくとも「覚える」という営みは、頭だけのことではないと古人は知っていたようだ。読書とは、意識するしないはあるにせよ、身体全身に言葉を一音づつ沁み込ませていく行為のようにも思える。仕事であっても日常生活であっても同じところがある。きっと「松は松。竹は竹。」という言葉も身体全身のどこかで覚えていたことを、あるきっかけによって想起させたのかもしれない。
読書や仕事など、ときに答えが欲しくなり「頭で覚える」という行為を自分に強いる。しかし「手応えを身体で沁み込ませる」というような「覚える」の方がずっと自分の肚に落ちるのだろう。
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